昭和54年11月19日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
天地金乃神様は昔からあられる神様であり、流行る事もなければ終わりもないという、その神様を本当にそうだと分からしてもらう。本当にそうだと確信出来れる為に、いわばその神様のお心をお心とした生き方をしていないと分からなくなってくる。いうならば人工的な神様になってくる。いうならば人情教になっていくね。それはいろいろ努めたり精進致したりしますからね。ま立ち行く事は立ち行きましょけども、いうなら純粋な天地金乃神様のおかげを受ける事は出来なくなってくる
。いわゆる人工的になってくる。人工的と言うとね。人間の力には限りがあるね。結局限りあるおかげと言う事になってくる。限りない無尽蔵のおかげにつながらせて頂くと同時に、いよいよ天地金乃神様が昔からある神だ。その昔からある天地の親神様のお働きを十分に受けさして頂く為にも、いよいよ持って天地日月の心になること肝要だ、と言う事になります。どうでも天地日月の心を持って、私共が日常生活をさしてもらいね。そしてそれに精進する心を、いよいよ作って行く以外にはございません。
お願いをしておかげ頂くというね、だけの信心に留まっておったら、いわゆる本当な事が分かりませんね。お取次を頂いて天地金乃神様おかげを頂くというね。それではねおかげを頂くなあとか、成程御利益があらたかだな、と言う事は分かるのです。けれども本当な事が分からんですね。これは天地日月の心になる事に、いよいよ精進させて頂いて、いうならば本当の事が分かってくる。例えば御理解三節なんかというのは、もいよいよ本当な事が教えられておる語られておるわけですけれどもね。
その事が聞いて、もう何十回聞いても同じです。まこの何十回頂いたか分かりませんよね。御理解七節、また御理解三節でもそうです。御理解三節はも本当な事が説かれてあるわけです。けれども本当な事と分からない証拠に、いうならば天地金乃神様の無限な働き、いわゆるここで言われておる、いろいろな表現ね。いわば開闢以来とかね。前代未聞とか、宗教以前の宗教とかね。詫びれば許してやりたいのが親心であるとかね。この世にはね。本当言うたら罪も因縁もね。
あるかないかは、私もよくは分からんけれども、あるにしてもお道の信心によればね。本当はたちどころに消えなければならないとかね。それこそ霜に煮え湯をかけるがごとくとか、というふうに私が表現致します。皆さんが聞いておられますから、分かっておられますけれども、けれども本当に分かってない証拠に、第一改式ひとつ出来ないね。まあ本当の事が分かってないからです。本当な事が分かってくるとね。
自分の物でもない物を自分の物のような思い違い、考え違いをしておるという、おぼろげながら分かるけれども、やっぱり自分が働き出したと、やっぱ自分のものと、自分の名義と、言う様な所から本当にすっきりと抜け切らないですね。だから今日は私は、今日のこの御理解七節から、いよいよ持って本当な事を分かってもらいたいと。それにはね。もうどうしても天地日月の心になること肝要、いわゆる天地日月の心で、いうなら私共が日常生活をさしてもらう。
そこには人情の挟む所もないほどしに、よし人情であっても神情をもって、人情とのコントロールが出来てね。いうならば詫びれば許してやりたいという、その親心にすがって、いよいよ本当な事が分かっていく事になっていくのですね。そこからいうならね。本当の障子一重がままならぬ人の身であるなあ。神様のいやこの神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだなあ、という事になるのですね。
昨夜のお月次祭にも、聞いて頂きましたように、もたまたま、というよりも合楽の場合、必ずそうなんですけれども、私は随分こうして日々、お取次さして頂きますけども、天中殺と言う事はあのう昨日初めて、お取次を三つ続けてさして頂きました。これはこういう馬鹿げた話というものが、あってよかろうはずはない。本当にこれは私自身にも、神様が分からせて下さろうとする働きが、なら三つも続いてその難儀な、天中殺から起こってくる難儀な問題。
世の中をいうならば世間狭う窮屈な、いやもう怖れおののいて生活せんならん、といったような人達のお取次をさせて頂いてね。金光大神の、いうなら昨日は福徳長と言った様な表現で聞いて頂きましたね。いわゆる金光大神の徳。それは金光大神が如何に天地日月の心をもって、いうならば人情の挟む余地もない程しの生き方をなされた。それは砕いて言うともういよいよもって成行きを、どんな場合でも大切にされたとね。お上からもう神様を拝んじゃならんと。あっそうですかと言うてその拝まれなくなった。御神前撤去である。御神前お神様も、何でも取り片付けられた。
あまりさっぱりされるもんですから、区長さんが暫くしてからね。まあ勿論日々が経ってからです、もういうならば内緒拝んでもいいですと言うてきた。けれどもこの方はもう内緒では拝まんと仰る。お上からいうならば、その手立てをえすりゃどんなにでも、人間心を使うてすれば、どんなんでも出来たか知れんけれども、人間心は使われなかった。もその間は家庭のお方達の場合にもです。さあお神様を拝まんごつなったら、収入もいわばなくなると言う事。
けれども決して言葉使いひとつでも荒げた言葉を使うなよと。丁寧の限りを尽くして行けよ、と言う様な風に教えられて、いうなら時節を待たれた。本当な事は本当の事として、神様はちゃんと道を開けてくださる。確信しての御事であったと私は思います。一事二事じゃありません。もう一事が万事にそういう生き方をなさった。いわゆる天地日月の心を、そのまま地で行かれた。そこにもうあらゆる徳もありましょうけれども、その徳の最も優れた長としての長としての御神徳を受けられた。
それを煎じ詰めると、和賀心と言う事になる。和賀心というのは、他の宗教でいう、心が和らいでおるとか喜びとか、それとは違うのだ。和賀心というのは、も教祖金光大神の、これはもう専売特許のようなものなんだ。真似する事も出来ないのであるね。そういういうならば大した御信心。御徳というものをですもってするならば。どんなに因縁もいうならば罪も穢れもね、立ちどころにいうならば霜に煮え湯をかけたように、おかげが頂けれるのですけども。
私共にはいわゆる観念があって、また観念が邪魔をする、又は私共は御理解三節に出てくるいうなら日柄方位に、まだこだわったりね。私のものでもないものを、まあだ私のもののような考え方をしておったりね。これが段々すっきり本当にそうだな、と分からせて頂く為に、いよいよ天地日月の心を、いわゆる心とする生き方。そこにはもう人情を使わんですむ、もう楽なこんな有難い生き方はないのですけれども、人情が邪魔をするのですね。本当の事が分かったらね。不安もなくなる心配もなくなるね
。一切を神愛として受ける事が出来る。どうでしょう、そういう本当の生き方が出来たらね。いよいよ日月の心、天地の心というものが、広く深く分からして頂く事になれば、いよいよおかげも広く深く限りないものにつながっていく。これはまた限りない事であるね。いわば合楽理念は、そういうおかげの頂けれる、まぁ糸口を説いたようなものであって、合楽理念が完璧と言われるのも、それであるね。完璧に向かって、いよいよ完璧から完璧へ進んで行く。迷う事がない。ただ進めて行くだけ。
それはなら天地日月の心。いよいよ天の心とは地の心とは、又は日月の心とは、と私共がそれを頂きこなしていく信心。そこからね、いよいよ本当な事が分かってくるね。それは昨夜も申しましたようにね。天中殺と言った様な、それは一つのま何でしょうか、学問でしょうね、から割り出していくと人間の過去、又は未来の事までが分かるという、その人間。それぞれ、それによると、いついつはどげな災難が起こって、いついつは過去にはこういう事があったろうが、という事まで分かってくる。
それこそ、それを本当に読んで、ただ昨日文男先生が言ってましたが、それにも親孝行をする、先祖を大切にする、と言う所に救われる道がある、という意味の事が説いてある、と言う事がですね。これはま私が言う、合楽理念は親孝行が芯だと言われておりますからね。ところがそれが出来ない人達は、いよいよも不安におののいた毎日を。昨日私がお取次をさして頂いたような方達。まだ高校に行っておる息子が事故死をするというふうに書いてあるね。
またそれを裏付けするように、いうなら次のお取次させて頂いた福岡の伊藤さんの場合なんかはね。御主人が買うて見えた本を、まおもしろいから読んでしもうた。読んでしまい終わってから、金光様の芯ちゃ有難いもの尊いものだ、と言う事が分かった。成程それに書いてある通りにあなたは十七か、十七の時に親を亡くすと書いてある。十八の時に両親を亡くしておられるそうです。
当たるわけですね。だからもびっくりされたわけ、して今のいうならばも年の時には、も去年から今年にかけては、いうならノイローゼのようになって狂い死にするとある。成程もし信心がなかったなら、ひょっとしてそう言う事になっておったか知れんと言う事が色々あった。けれども、ただお道の信心をさせて頂いて、少しでも真の信心が分かりたい。世のお役にも立ちたい。
お道のお役にも立ちたいの、一念を燃やして、二年間過ごさせて来られたうちに、いうならば狂う事もなかれば、狂い死にすることもなかった。しかもますます自分の心の中に開けてくる有難い心は、もう限りない事であろうと、いうならば有り難い心に浸らして頂く事が出来る。お道の信心は有り難い、と言うて昨日はお届けがありましたね。金光大神の信心というのが天地金乃神様、いわゆる天地日月の心を心としての御信心からうまれた最高の御徳である。
その最高の御徳を持ってすると天中殺も、いうならば全然功を奏しない。言うておる事は当たらない事になってくる。そして増々有難い事になってくる、というのでありますね。だからそういうおかげの世界だけではなくてです。本当に私共が本当な事が分かって、本当の安心のおかげを頂きたいのです。ただおかげを頂いていく、というだけで安心は生まれません。本当な事が分かっていよいよね。本当のいうならば安心、の境地が開けてくるのですね。だからいよいよもって天地日月の心をです。
もうことごとに、ここんところは天の心でいく為には、地の心でいく為には、日月の心でいく為には、どうあったがよいか、という自問自答さして頂きながら、それが血に肉に、それが自分のものになるところまで信心を押し進めて行かなければならない。今日は、天地日月の心というのを、そういう本当の事が出来てくるようになると、いよいよ本当な世界が、も限りなく開けてくる、という事を聞いて頂いたですね。
どうぞ。